願いが叶って気づいた、在り方があるかないか
- 7月4日
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思い返してみると、願ったことは、叶っていることが実は多い。
若い頃、将来は社長になりたい。そう漠然と思っていた。
数十年後、なった。
なってみて分かったのは、肩書きが手に入っても、それだけでは何も保証されないということだった。気づいたらお金を失っていた。仲間も離れていった。さらに税理士まで離れていった。
大変だった、なんて言葉じゃ収まらない。漠然と「なりたい」と願っていたあの頃、こんな現実が待っているとは思わなかった。在り方がないまま、ただ願っていただけだった。
一方で、自分にはもう一つのパターンがあった。
当時、印刷の製版をやっていた。集版やレタッチと呼ばれる、アナログの仕事だ。そこにDTPというデジタル化の波が来て、このままでは仕事が置き換わるという危機感があった。そして、漠然と思っていた「社長になりたい」は、忘れていた。
その危機感を、不安のまま終わらせなかった。興味に変えて、Macを買った。
ただ、学んだのは基本的な操作レベルだった。高くてメモリーを増設できなかったので、当時のAdobeのソフトはまともに動かず、深くまで学べなかった。転職して実務に入ってからは、ほぼゼロから教育を受け直すことになった。
Macを買ってAdobeが使えないから、興味の矛先がいつのまにかインターネットやネットワークの方に向いていた。また、OSを入れかえる(再インストール)ことも何故か好きになっていた。この知識が、現場でも、そして今でも重宝される。
ビジネスとしての成果じゃなく、誰かの役に立てた、という嬉しい気持ちだ。
社長の肩書きは叶った。でも残ったのは、失ったものの重さだった。PCの方は、狙い通りじゃなかった。でも残ったのは、役に立てたという満たされた感覚だった。
叶うことだけを追いかけていると、在り方が抜け落ちる。叶うかどうかより、その過程にどんな在り方があったかが、最後に残るものを決める。
・なりたいだけで在り方がなければ、大きなものを失うことがある
・危機感を行動に変えたとき、狙い通りでなくても満たされた
・叶うかどうかより、過程でどう在るかが残る




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