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四国遍路を思い出して気づいた、すでに教えがあったということ。

  • 2 日前
  • 読了時間: 3分

更新日:1 日前


三十代の時に、四国お遍路を歩いたことがある。

弟を亡くして、供養のために始めた巡礼だった。


88か所の霊場を巡りながら、空海が開いたとされる道を、自分の足でたどった。何かを求めていたのか、ただやってみたかっただけなのか、その時は自分でもよくわからなかった。


歩いている途中、弟のことは正直あまり考えなくなっていた。


それは、あの時助けられたのではないかと強く後悔していたし、今思うと恥ずかしいが、事件性がないのに犯人を探すようなこともしていた。


でも、次第に弟を助けられなかった兄であることを認めたくなかっただけだと気づいた。そして、何もできない自分を受け入れた。


弟はそんな俺のことはお見通しで、「やっと気づいたか!」と言われたようだった、それからは不思議と、弟のことは考えることが少なくなっていった。


それからは、区切り打ちでやっていたので、日常と遍路の2つの現実を同時に生きていたようで、歩いている自分が本当の自分で、そのために働くもう一人の自分がいる——そんな感覚が湧いてきた。


ここには答えはないが、日常で関わる人や出来事が、現実ではないような感覚だった。そしてただただ歩いて巡礼した。


行く前は、息継ぎも難しくて唱えることができなかった般若心経が、スラスラと唱えられるようになった。また、初めはカジュアルな格好であったが、次第に杖をつき、白衣を着るようになり、袈裟をつけ、数珠を持ち、すっかりお遍路になりきっていた。


GW、夏季休暇、年末年始の休みを使い5年かかった。結願した時は、とても静かだった。当然、誰かが待っていたということではないから、派手な何かは起きなかった。


でも時間が経つにつれ、じわりじわりと達成感が来た。それだけだった。でもこの達成感は30数年生きてきて初めて感じたもので心が満たされたのを思い出す。


その達成感のある体験があるのとないとでは、心の奥行きが全然変わると感じた。それだけは言える。それから時間が経って、何冊かの本を読み、自分なりの言葉を探す中で気づいた。俺がたどり着いた言葉には、とっくに名前がついていた。


「成り切る」について整理しようとした時、空海の「即身成仏」という言葉が引っかかった。難しく聞こえるが、意味はシンプルだ。遠い未来の理想を目指すのではなく、すでにそうである自分として今を生きる。「〜になりたい」ではなく「俺はこう生きる」と意図する。俺がブログで書いてきた「成り切る」と同じことを言っている。遍路道を歩いていた時、俺は何かを「目指して」いたわけじゃなかった。ただそこにお遍路さんとしていた。今思えば、それが「成り切る」に一番近い感覚だった。


「感じきる」に近いものも、密教の中にあった。理趣経にあるように、湧いてくる感情に蓋をせず、それを本当の自分として受け止める。俺が「感じきる」と呼んでいたものと、とても近い。


そして、内省だけだと、頭の中で堂々巡りになる。ぐるぐる考えているうちは「わかった気」になれる。でも本当に見えてくるのは、言葉にした後だ。書く、話す、表現して誰かに伝える。アウトプットという行動をとって初めて、内省が「気づき」になる。内省することと伝えることは、セットでないと機能しない。それもまた「行動する」の話だ。


空海は1200年前の人間だ。密教は古代インドから伝わった古い思想体系だ。時代も文化もまったく違うのに、言っていることが重なる。俺が自分の経験からひねり出した言葉に、とっくに教えがあった。それを知って、なぜか少し、楽になった。


  • 弟の供養で歩いたお遍路。何もできない自分を知った時、不思議と考えることが少なくなった。

  • 「成り切る」は即身成仏に、「感じきる」は理趣経の教えに通じる。自分でひねり出したと思っていた言葉に、すでに教えがあった。

  • 内省と行動はセットでないと機能しない。伝えて初めて、内省したことが本当に見えてくる。


 
 
 

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